「本当ですよっ! 一瞬で消えちまったんですよっ!」 男は携帯電話を片手に、辺りを見回しながら誰かに話しかけていた。 普通の女の子なら変質者やストーカーを疑う所だが彼女は違っていた。(心配性の依頼主なのね……) 男はクーカに仕事を依頼して来た組織の下っ端なのだろう。自分の仕事を見張っていたに違いないとクーカは考えていた。 追跡者が見当違いな方向に走り出した。それを見届けてからクーカは屋上から道路に降りた。まるで、散歩の続きをするかのように舞い降りたのだ。 クーカには普通の人間とは違う所がある。 筋肉と骨格を薬物で強化されている上、幼い頃から軍人たちによって訓練を施されていた。彼女は作られた強化兵士だ。 元々は米国軍の強化兵士作成プログラムだった。しかし、成人男性相手では研究成果が巧く現れなかった。そこで研究機関は子供用にアレンジしたものを使用してみたらしい。 既に骨格や精神面が完成されている大人と違って、成長期の子供の場合には強化薬物の効果は抜群だった。 薬品により常人の数倍の速度を出せる筋肉とそれを支える頑丈な骨格が作られた。彼女は五メートル程度の高さなら飛び上がれる。そして、瞬発力が優れてるので、目の動体視力とも相まって銃弾を躱せるように肉体が改造されているのだ。 それは試験体と呼称されていた他の子供たちも同様であった。子供たちは貧民街などから親の居ない孤児を集められていた。まともな手段では人権団体などから激しい突き上げをくらうからだ。 子供を試験体などと呼ぶ事で分かる通り、研究機関は試験体には一切の感情を持つ事を許さなかった。感情は任務の遂行にジャマなだけだからだ。彼等の興味は実験結果であり、試験体の健やかな成長では無いのだ。 日中は体技の訓練。夜は爆発物や薬品などの座学の訓練。それを休む事無く続けさせられていた。 物心付いた頃から毎日させられていたので、試験体たちは自分たちの処遇について疑問に思う者はいなかった。 もちろん、訓練から落後していく者もいたが、いつの間にか見かける事が無くなっていた。消去。それだけだ。 その何十人も居る試験体の中でもクーカは優秀な成績を収めていた。やがて、クーカはコードネーム『QUCA』を与えられ任務を任されるようになったのだ。 十四歳になった時。彼女は麻薬密売組織殲滅の任務を受けて中南米のエバジ
エバジュラム国に派遣されたクーカは、今回の麻薬密売組織が自分の両親を殺した仇だと知る。 しかし、殲滅作戦は内通者の裏切りで、クーカの所属していた実働部隊は壊滅状態になってしまった。 だが、クーカはたった独りで麻薬密売組織を壊滅させ、ついでにCIAの監視チームも壊滅させた。 監視チームの一部に内通者が居たのだ。 しかし、それを証明する証拠も手段も無く、唯一の生存者だった指揮官は植物状態になっている。 身に危険を感じたクーカは脱走する事になった。 彼女は脱走兵として米軍とCIAに追われるようになる。 しかし、彼女はそんな事は気にしていなかった。彼等の精鋭と言われる部隊は自分よりも明らかに劣っているからだ。 彼女は身に振り掛かる火の粉は徹底的に払う事にしている。同情や施しは自分の為にならないと知っているからだ。 追跡者を躱したクーカは大きめの橋に差し掛かっていた。車がひっきりなしに行きかっている交通量の多い橋だ。 そこをトコトコという感じで歩いている。「今、動画を送ったわ」 彼女は携帯電話を耳に充てながら誰かと会話していた。 肩にはエレクトリック・ギターの四角いケースを担ぎ、背中には亀の姿をしたリュックを背負っている。 その姿は普通の女子高生のようだ。 しかし、ギターケースの中身は遠距離狙撃用のロシア製ドラグノフ・ライフルだ。亀リュックの中身は夜間暗視用ゴーグルとライフル用照準器。中々に物騒な女子高生である。 そして、黒い外套の下には大型のククリナイフとグロックを携えていた。まるで移動する軍隊のようだ。 だが、見た目が可愛らしい少女なので職質を受ける事などは皆無だ。人には人畜無害と映るらしい。『ああ、見たよ…… チョウは一人じゃ無かったな……』 電話の相手はぶっきらぼうに答えた。 クーカは依頼を受けた時に一度だけ面会している。やたらと横柄な態度を取るヤクザだった。「そうね、男と一緒だったわ」 クーカは淡々と答えながら歩いてた。クーカを見て本当に大丈夫なのかと、何度もコーディネーターに質問していたのを思い出した。『なら、その目撃者も始末しろよ』 電話の相手はなにやら怒っているようだ。「契約に目撃者を消せとは無かったわ」 クーカはそんな事には気が付かないのか事務的に話していく。『証人を消すのは殺し屋のルールだろう?』
クーカが依頼主に逢うのが嫌なのは、彼女の見た目でトラブルを招く事が多いからだった。「貴方に指図される筋合いは無いわ」 クーカは相手の恫喝を意にも介してない。 元々、今回のチョウもトラックの狙撃の時に一緒に依頼すれば良かったのだ。 運転中に狙撃しろなどと注文着けて来たので妙だなと思っていた。だが、あの爆発を見て合点がいった。チョウも巻き込まれて死ぬと考えていたのだ。 仕事の金をケチりたかったのであろう。 しかし、意図に反してチョウが生き残っているのが判明したので再度依頼されてきたのだ。『あんたには高い金を払っているんだ。 サービスぐらいしろよ』 電話の相手は泣き落としに出てきたようだ。(自分のせいじゃない……) 自分のセコイ金勘定からの余計な出費だったのに随分と図々しいなと考えていた。「予定外の仕事はやらない事にしているの」 クーカはチョウと一緒に居た相手を思い出していた。目の前で人が狙撃されたにも関わらず、素早い動きで自分の身の安全を測っていた。兵隊か警察か。いずれにしろ数々の修羅場を潜り抜けた相手に違いない。「それに今回の仕事はヨハンセンの紹介だから引き受けただけよ」 ヨハンセンとはクーカの仕事仲間だ。移動を助けてもらったり、仕事の仲介などもしてくれている。「それにトラックのターゲットが顔見知りで、ちょうど探してたのもあるわ」 彼女が誰かしら探す目的は、相手を抹殺することを意味していた。「それに…… 私がここに居るのは仕事が目的では無いわ」 クーカは立ち止まって川面を眺めた。川を渡っていく風が気分を落ち着かせてくれるような気がしたからだ。『俺に逆らったらどうなるか分かっているのか?』 ところが、相手は恫喝をやりだしてしまった。話し相手がヤクザだと忘れているのかもしれないと思い始めているようだ。「……」 クーカは黙ったままだ。『ああ?』 電話が壊れるのかと思う程の怒鳴り声だ。 クーカはそろそろ面倒になって来ていた。それよりチョウと一緒に居た男の情報を探る必要を感じていたのだ。(アイツはきっと面倒な奴だ……) クーカの感が囁いている。裏の社会で生きて行くのに必要な能力だ。「どうすると言うの?」 クーカがぶっきらぼうに聞いている。しかし、その目が冷たく光り始めていた。『お前もぶっ殺してやると言ってるんだよっ
深夜の繁華街。 ビルの地下に有るワンショットバーに先島は来ていた。 昔、先島が公安時代に懇意にしていた情報屋がマスターをしている店だ。マスターはかつてCIAの情報分析官をしていた。その時代のコネもあって、今でも表裏の様々な情報が入って来るらしい。 捜査に行き詰まるとここに来てヒントを貰う事がある。 先島が店に入るとマスターがグラスを磨いていた。バーなどで良く見られる光景だ。 店内には客が少なかった。平日のせいでもあるが、ビルの奥まった所に有る店に分かりづらい。「今日も静かだね……」 そして、先島は一人になれる所が気に入っている。「ええ、今は外で飲む人が少なくなってますし、会社の経費で飲む機会も無いですからね」 今時の若い人はお酒を飲む習慣が無くなりつつ有るらしい。大学や会社の仲間同士でコミュニケーションを作るのに、酒は必要が無くなっているのかもしれない。 バーなどの飲食店でも、非喫煙者用に禁煙スペースを設けても需要が復活しないのだそうだ。時代の流れであろう。「まあ、喧しいのは苦手だから構わないですけど……」 そう言ってマスターは苦笑いしていた。CIAを引退してからは悠々自適の生活を楽しんでいるようだ。「それはこっちも同じだよ」 先島も愛想笑いを浮かべながら相槌を打った。「で、今日は何を聞きたいんだい?」 普段、無愛想な男が愛想笑いをする時は、頼み事がある時だと知っているマスターは先に質問をしてきた。「御代わりを下さい……」「ところでマスター。 クーカって名前の殺し屋を聞いた事があるか?」 先島はバーボンの御代わりを頼むついでに聞いてみた。「ええ? 今の時代に殺し屋?」 マスターは鼻で笑っていた。久しく聞いていない職業だからだ。今は暴対法の取り締まりが厳しくなっている。殺し屋が逮捕されると連座して同程度の量刑を喰らうので、暴力団は使いたがらなくなっているのだ。「ああ、チョウを知っているだろう?」 先島はそんな事は気にせずに質問を続けた。「あんたの目の前で弾かれたんだってね……」 流石は情報屋である。警察で発表していない情報まで知っている。「チョウが弾かれる寸前に、クーカに狙われていると俺に言ったんだ」 チョウは狙われていると言ってた割に怯えていなかったのを思い出した。「そうか、ならクーカの名前を聞いて逃げるの
「そう。 更に悪い事は重なるもんでね……」 マスターが更に話を続ける。「C国から輸出する時に臓器が足りないって言うんで、その辺をうろついてる浮浪児をかっさらって輸出したんだ」 C国では母親が押す乳母車から赤ん坊が攫われる事が有る。それくらいに児童の誘拐事件も多く、C国の警察も対応が追い付かないと新聞に書いて有ったのを思い出した。「つまり……」 輸出と言っても人間を生身のままで連れまわすのは効率が悪い。彼等は解剖されてバラバラにされたのは明白だった。「そういう事だ」 マスターはきっぱりと言った。 先島は見た事も逢った事も無い浮浪児たちの運命を思うと悪酔いしそうだった。「ところが、その中にC国の黒社会幹部の孫娘が交じっていたんだ」 マスターがため息を付いた。「それでチョウは始末される事になったんだな……」 どうやって孫娘が『輸出』されたと知ったのかは分からない。だが、北安共和国はC国に頭が上がらないのは有名だ。チョウの家族が労働矯正所送りになった原因はこれであろうと先島は思った。「ああ、ところがお前さんも知っての通りチョウの逃げ足はピカイチだ」 もちろん逃げ足の速さは知っている。どうやってかは分からないが、東京で目撃された翌日には上海にいたりもする。人物を安全に移動させる秘密のルートがどこかに在るらしい。「それで殺しの依頼がクーカにいったのか……」 ようやくチョウとクーカの関係が見え始めた。 何故、マスターがチョウの事に詳しいのかは謎だ。恐らくは米国の諜報機関もクーカの事を探っているに違いないからだ。その関係で情報が流れて来ていると推測していた。 だが、敢えて追及しなかった。マスターを追い込むのは得策ではないと思っているのだ。 相手は辞めたとは米国の諜報機関。自分は日本のなんちゃって諜報機関。目標とする所が大分違っているからだ。 今の憑かず離れずの関係がお互いにとって良いのだ。「クーカはヨーロッパの方ではしゃいでるってのは聞いた事があるね」 マスターがはしゃいでいるという時には活躍していると言っている時だ。しかも、相手が気に入ってる時に使う。「ヨーロッパ?」 C国関連の人間だと思っていた先島は面食らってしまった。「ああ、優秀な猟犬で確実に目標を仕留める狩人として評判になってるよ」 マスターが人を褒めるのは珍しいなと思
とある暴力団組長のお家。 何から守っているのか不明だがやたらと塀の高い家がある。防犯カメラを四隅に設置して万全の構えのようだ。そして、出入りするのはゴツイ男ばかり。 ここは指定暴力団向山興行の社長宅だ。 クーカはそんな屋敷の塀際に来ていた。「……」 クーカは人通りが無いの確認すると、塀の上を見上げてから跳躍をした。どんなに高い塀も彼女の障害にはならない。 彼女はこの家の主に用があるのだ。 チョウの始末を依頼して来たのは向山興行の社長さんだ。しかし、素直に言う事を聞かない殺し屋に業を煮やして『殺す』と口走ってしまった。クーカは敵対する者を生かして置く訳にはいかないので始末する事にした。 つまり、彼女は殴り込みに来ているのだ。客では無いので玄関で出迎えてくれるとは思えなかったからだ。 塀を飛び越え手頃な樹の枝を経由して地面にフワリと着地する。それは猫が高い所から降りような感じだった。音をたてる事無く移動するのは訓練で嫌と言う程やらされた。 それは生存確率に影響するので厳しい訓練だったのだ。「?」 塀の上を飛び越える時に庭の様子を一瞬で見回した。敵地への偵察は優秀な兵士の印だ。脅威がある順番で敵を掃討しなければならないからだった。 しかし、ぱっと見では庭に人の気配が余り無かったのだ。自分が来る事は向こうもしている筈なのに不思議に感じていた。(逃げた? でも、家の中に複数の人間がいる気配がする……) 広めの庭には樹木が生い茂っている。月の灯りが無い時には真っ暗と言っても差し支えの無い様相だ。「……」 クーカが樹の間から様子を伺っていると男たちが十人程出て来た。そして、自分の方をじっと見ている。どうやら感知されているに違いない。(赤外線センサーだろうか?) 動物や人間などの発する熱を感知させる警報機だ。暗視カメラ程ではないが暗闇でも可視化する事が出来る。(赤外線ストロボを持って来れば良かったわ……) 赤外線に反応するのなら飽和させてしまえば良いのだ。赤外線ストロボはそれが簡単に出来る。(武器を持って無い?) 出て来た男たちを観察していたクーカが首を捻った。 男たちは上半身はシャツだけだった。この手の人たちは武器を隠すのにスーツを着たがる。「?」 仕方が無いのでクーカが暗闇の中から姿を現した。それは、闇を分けて出て来ると言
「なんのつもり?」 クーカはその違和感が何なのか分かった。試されたのだ。「失礼いたしました。 稽古を付けて頂いただけです…… 自分は舎弟頭の江藤と申します」 ナイフの男を殴りつけた男は江藤と名乗った。「こいつらが小娘に舐められるのが気に入らないと聞かなかったもんですから……」 江藤の後ろに控えている男たちは全員頭を下げている。どうやら『小娘』には敵わないと理解出来たようだ。『君らでは準備運動の相手にすらならないと言ったんだがね……』 聞きなれた声が部屋の中から聞こえて来た。 江藤は頭をさげたままで、部屋の中へと手を示していた。他の男たちは倒れた男を救護する者以外は微動だにしていない。 クーカはため息を付いて部屋の中に入った。脅威は去ったと判断したのだろう。 大きい部屋には赤いじゅうたんが敷き詰められ、高そうな応接セットが部屋の中央を占めていた。そこには家の主である向山興行の社長がいる。社長は顔を真っ赤にしてクーカを睨みつけて来ていた。 その真向かいに見知った顔がソファーに腰かけていた。『やあ、クーカ。 今日も素敵な衣装だね』 そう言いながらにこやかに話しかけて来た。『ヨハンセン……』 クーカのコーディネーターだ。チョウの暗殺も彼の仲介で実行している。『ところで、僕のお客さんを粗末に扱ってはいけないよ……』 ヨハンセンは言った。恐らくは社長が泣きついた物と思える。彼はオランダ訛りの英語を話している。『先に私を殺すと言って来たのはその男よ?』 クーカも同じようにスペイン訛りの英語で返答した。彼女は日本語よりスペイン語の方が得意らしい。育ったのが中米なので仕方が無い事だ。『彼は君のルールを知らなかったのだ。 一度は許すのが神の教えだよ』 ヨハンセンは信じてもいない神の名前を出して来た。『私は神様なんてあやふやな物は信じないタイプなの……』 クーカは組長を睨みつけたまま答えた。彼女は頑固なところがある。一度決めた筋道はなかなか曲げないのだ。 ヨハンセンはため息を付いて紙を取り出した。『君の欲しがっていた情報だ…… 写真に写っている彼が持っているそうだよ』 クーカはヨハンセンを見て、続いてヨハンセンが出した紙を見た。 何より、隣室にいるらしい十数人の男たちがいる。さっきと違って武装してるに違いない。それらとやり合うのに時
保安室。 先島は先日に有ったチョウの殺人事件の報告を室長にしていた。「それでは、自分の殺害現場を見せつける為にお前の前に現れたのか?」「はい。 自分はそう推測しています」「根拠は?」「チョウの行動です。 事件で使っていた携帯電話を使ったり、当局がマークしている人物と往来で接触するなどですね」 先島はチョウの不審な行動を説明した。「そう云えば、見つけてくれと言わんばかりでしたね……」 青島が横合いから口を挟んだ。「確かに…… それで、クーカとか言う殺し屋の情報は?」 先島に聞いた殺し屋の名前を口にした。「はい、藤井に調査をして貰ってます……」 情報屋の飲み屋のマスターの話はしていない。何でもかんでも仲間に話す必要はないからだ。ただ、マスターからの情報を元に訊ねる機関の目星は藤井に言っておいたのだ。 先島は藤井に目で合図した。 藤井は頷いて壁に架けられているディスプレイに情報を表示させ始めた。「クーカはエストニア共和国で発生した、要人テロを行った実行犯としての容疑をかけられています」 最新の情報と思われる新聞記事が載っていた。しかし、そこにはクーカの文字は無かった。エストニアの大富豪が惨殺された事件らしかった。だが、クーカが実行した証拠が無いのだろう。 藤井は説明を続けながらせわしなくキーボードを操作する。「それから、容疑は不明ですが米国や欧州それにロシアの諜報機関が発見したら知らせてほしいと言って来てますね……」 発見しても手を出さないで、自分たちに相談した方が賢明だとも書かれていたらしい。「モテモテだな」 青山がしょうもない相槌をうっている。「ここに表示されているのは中米の犯罪組織セタスの幹部たちです」 藤井は青山の話を無視して、麻薬カルテル・武器商人など雑多なリストが表示させていった。「次に表示されてるのは欧米をはじめとする先進国の要人たちです」 今度は主だった国の政治家や財界人などのリストが並んでいる。 すべて、クーカが関与したと思われる事件なのだそうだ。「ん? セタス幹部は頭を撃ち抜かれているが、要人たちは身体を切り刻まれているな……」 先島はクーカの殺し方に二種類ある事に気が付いた。「要人たちは直ぐには殺されずに、ゆっくり出血多量で死ぬのを待っているのか…… 中々、手間のかかる殺し方だな」 室長
「あの娘はこれから友達を沢山作って、恋も一杯して、そしていつか結婚して子供たちに囲まれて静かに暮らす」 クーカは目を細めて『妹』の姿を見ていた。「そんな平凡な人生を送っていくの……」 打球を撃ち返せずに悔しがる妹。その妹を励ます友人たち。微笑ましい光景だ。「どれも…… お前には手の届かないものだな」 そんな様子を見ながら先島が言った。 「人は平凡なんかつまらないと言うけど、私から見れば眩しいくらいに羨ましいわ……」 実の姉が生存している事を知らない『妹』は、周りに居る友人たちと屈託なく笑っている。「彼女は私とは違う人生を送っていって欲しい。 それが私の残された願い…… 誰にも邪魔はさせないわ」 きっと何事も無ければ、妹の隣で共に光り輝いていたであろう自分の青春に思いを馳せていた。「……お前はそれで良いのか?」 先島が尋ねた。「物心付いてから今までに覚えたのは、人の殺し方と獲物を追い詰めるコツだけよ……」 クーカは口元に薄い笑いを浮かべがら言った。自分の人生にあるのは硝煙と血の匂いだけだ。今、居なくなっても誰も気に留めないし振り返られもしない。「……今更、どうにもならないわ」 きっと、どこか遠い国の知らない街の路地裏で、ひっそりと始末されるのが運命なのだと悟っている。風に吹かれると消えてしまう煙のようなものだ。「俺たちなら違う人生を送れるように手配できる」 俺たちとは先島が所属する組織の事だ。「表の世界に戻ってこないか? このまま暗闇の中をいくら走っても何も見えないままだぞ……」 先島は彼女をスカウトしようとしていた。殺し屋になるしかなかった不遇の人生を思いやっている訳ではない。 何とかして絶望の中で足掻いている少女を救いたかったの
小高い丘の上。 平日の午後。住宅街に設置されている児童公園には散策する人すらいない。 その児童公園は小高くなっている丘の上にあった。そして、公園の眼下にあるテニスコートが一望できていた。 テニスコートには部活なのだろうか、付近の中学校の生徒たちがラケットを振るっていた。 そんな学生たちをクーカはベンチに座ってぼんやりと眺めていた。「ここに居たのか…… 探したよ……」 クーカがチョコンと座るベンチの隣に先島が腰を掛けて来た。「……」 クーカは先島がやって来た事に関心が無いようだ。気が付いて無いかのように無言でコートを眺めている。 眼下に見えるテニスコートからは、テニスボールを撃ち返す音が響いて来た。それに交じって仲間を応援する声もする。 それは平和な日本を満喫するどこにでもある風景だ。「俺にもあんな時代があったな……」 生徒たちの上げる嬌声を聞きながら先島がポツリと言う感じで言った。「周りに居る大人は全部自分の味方だと信じていたもんさ」 そんな学生たちを見ながら、先島がおもむろに口を開いた。「無心に部活に打ち込んで、家に帰ってからは勉強そっちのけでゲームばかりやっていたっけ……」 もちろん人間関係の煩わしさもあったが、大人となって足枷だらけになった今とは雲泥の差だ。「……」 クーカは先島の話に関心が無いのか無言のままだった。 二人が見つめるコートの中に、一人の女子生徒が歩み出て来た。どうやら打球を受ける練習を行うようだ。 それを見ていた先島がおもむろに口を開いた。「彼女の名前は親谷野々花(おやたにののは)。年齢は14歳の中学生……」「成績は中くらいで友人は多数。 勉強は大嫌いだがスポーツは大好き」「まあ、どこにでも居る平均的な
(急がないとクーカの足取りが消えてしまう……) あの銃撃戦の跡にクーカの死体は無かったと聞く。もっとも素人に毛の生えた程度の連中では歯が立たないのは解っていた事だ。恐らくは無事に脱出している物だと考えていた。(まずは当日の監視カメラ映像を藤井に頼むか……) ポケットから携帯電話を取り出そうとした。カツンと何かに触れた感覚がある。 先島は上着のポケットにメモリスティックがある事に気が付いた。「なんだ?」 もちろん、そのメモリスティックは自分のものではない。会社の物でもない。「……」 先島は車に積んであるノートパソコンを起動した。メモリスティックの中身をチェックする為だ。 ノートパソコンに差し込んで中身を確認したが0バイトと表示押されている。それが増々不信感へと掻き立てた。「これは…… クーカが使っていた奴なのか?」 先日の事件があった時。 怪我で気を失う寸前に、くーかが何かを落としていたのを思い出した。殆ど無意識のうちに握り込んでいたのであろう。 きっと、先島を救助してくれた隊員は、私物と思ってポケットに入れてくれたらしい。 問題は中身が何なのかだ。「物理トラックを解析トレースしてみるか……」 ファイルの消去と言っても、単純な消去では物理的な領域を消されている事は少ない。ファイル消去後に何も操作されていなければ中身自体は残っている可能性が高いのだ。それを読み出せる状態にしてあげれば消去ファイルを復活させることは可能だ。 先島は自分のパソコンにインストールされている復元ツールを使って復活させる事にした。作業自体は難しくは無い。ツールが示すコマンドを認証していくだけだ。後はツールが推測して勝手にやってくれるのだ。 ほんの一時間程度で終了した。 もう一度メモリスティックの中身を表示させてみると、そこには改変前と改変後のファイルがあった。「やはり、何
都内の病院。 医者が言う事を聞かない人種はどこにでもいる。 先島もその一人だ。傍に居る医者は渋い顔をしていた。「どうしても。 仕事に戻らないといけないんですよ」 病院のベッドから起き上がった先島は、そんな言い訳にもならない事口にしていた。 ところが、先島の担当医は首を縦に振らない。一緒に居た看護師もあきれた顔をしている。「せめて縫い合わせた所が融着するまでは退院は許可できません」 そう言ってメガネの下から先島を睨んでいる。 致命傷では無かったが、弾は身体をすり抜けているのだ。少し動けば再び出血してしまうのが分かっている。そうなれば命に係わるので反対しているのだった。「いいえ。 自分が担当している事件は時間との勝負なので……」 そんな事は意にも介さずに自分の荷物(元々そんなに無かったが)をまとめ上げていた。 病院に見舞いに来ていた青山に、車を置いていってくれと頼んでおいたのだ。「駄目なものは駄目だと言っている」 医者は更に言い募ったが、先島は医者の忠告を無視しながら身支度をしていた。「歩ければそれでいいんで……退院しますね?」 先島は既に上着を羽織っていた。元より人の言う事を聞かない男だ。「万が一の事が有っても責任は持てんよ?」 医者は最後まで首を縦に振らなかった。「元々、自分の命は使い捨てですから……」 先島は自嘲気味に言いながら病室を後にした。 そんな先島の後姿を見ながら、医者は首を振りながらため息をついた。手元のボードに何かを書きつけて、次の患者の診察の為に歩み去った。 工場が無事に爆破されたのは知っている。青山がこっそりと教えてくれた。きっとクーカが始末してくれたのに違いない。(大人としては是非とも礼を言わないとな……) 工場はボイラー設備で不具合が発生して、『小規模な火災』が発生したと処
クーカは手近な樹に向かって手を伸ばした。 指先を何枚かの葉が滑っていく。 やがてガシッとした手ごたえがあった。枝を捕まえる事に成功したのだ。しかし、クーカの身体と落下速度を支える事が出来ない枝は直ぐに折れてしまった。 でも、クーカの身体を樹木の傍に引き寄せる手掛かりにはなった。クーカは何本かの枝の間を転げる様に落下していく。「うぐっ!」 一番下と思われる枝に腹をしたたかに打ち付けたクーカが呻き声を上げてしまった。彼女とて痛みは感じるのだ。「ぐはっ」 枝から地面に落ちたクーカは、肺の空気を全て吐き出してしまったかのような声が出てしまった。(は、早く…… 工場の敷地から脱出しないと拘束されてしまう……) 彼女は朦朧とした意識の中、脱出の事だけに専念した。クーカは痛みを無視する事が出来る様に訓練は受けている。痛みも彼女にとっては雑念の一種なのだ。すぐに立ち上がって周りを見渡し用水路を目指した。ヨハンセンが待機していると言っていたからだ。(ここからなら、拾い上げポイントまでたどり着ける……) クーカは工場のすぐそばを流れる用水路に飛び込んでいった。先島の事もチラリとよぎったが、まずは自分の安全が優先だと判断したのであった。 工場が吹き飛び爆炎を上げるのを鹿目は虚ろな目で見ていた。色々と画策したが何一つ手に入ることが出来なかったのだ。(どこで、間違ったのだ?) 挫折を知らない鹿目は戸惑っていた。彼の間違いはクーカを歯車の一つとして扱ってしまった事なのだろう。「ふっ、これでも私は日本を思っての行動だったのだがね……」 鹿目はぽつりと漏らした。傍には室長と藤井が控えている。藤井は鹿目との接触を全て室長に報告していたらしい。「人間のクローン技術は、今後の日本が強くなっていく為には必要な物なんだよ……」「……」 隣に
鹿目の工場。 目的の物を手に入れたクーカは台座の隠し扉から出て来た。もはや室内には物言わぬ骸しかいない。辺りを見回して少しだけため息を付いた。自分が入って来たエレベーターの出入り口に向かっていった。(応援が降りて来ているかも……) ひょっとしたらと身構えながら覗き込んでみる。しかし、誰もエレベーターシャフトには居なかった。急に応答が途絶したので対応が分からないのであろう。 クーカがシャフトを見上げると、自分が入って来た入り口は机のような物で塞がれてしまっている。エレベーターの箱は四階と五階の間で停止しているらしかった。(二階…… いいや、三階だったら待ち伏せされる可能性が薄いはず……) 自分が入って来た壁が塞がれているという事は、そこで待ち伏せされているに違いないと踏んでいた。自分でもそうするからだ。 安全に表に出る為には彼らの裏をかかないといけない。別段、殲滅しても構わないのだが、厄介な荷物を背負っているので避けたいところだ。(そこでジッとしててね……) 一階の塞がれた穴に向かって、そう心の中で呟くと一気に跳躍した。 クーカはエレベーターシャフトの中を、ジグザグに跳躍しながら登っていく。彼女の持っている身体能力の御陰だ。「んっ!」 三階のエレベーター口に辿り着いたクーカは、扉をこじ開けて中に入って行った。 すると『ズズンッ』とビルが振動するのが分かった。研究所の爆発が始まったみたいだ。小規模な爆発の連鎖で建物の構造を弱くしてから一気に破壊する。爆破解体と呼ばれる手法だ。(その後で焼夷爆弾で完全に燃やしてしまうと……) 外国のウィルス専門の研究機関では、燃焼温度が三千度にもなるテルミット反応爆薬が使われる。ここもそうしているに違いないと確信していた。証拠をもみ消すには完全に消滅させる必要があるのだろう。「……」 少し急ぐ必要性を感じていた
「?」 クーカが小首を傾げる。「特殊なキーが必要なのさ……」 大関の額から汗が垂れ始めた。「どうせ、貴方の網膜認証と指紋なんでしょ?」 クーカが目を指差しながら聞いた。ありふれた防犯装置だからだ。「ああ、生憎と怪我で動けなくなってしまったね……」 大関はそう言ってニヤリと笑った。その足元には血溜まりが出来始めている。銃撃戦での流れ弾に当たったのだ。「じゃあ、本人が生きている必要があるの?」 彼女は大関にグッと顔を近づけて言い放った。「現物を持っていけば良いだけなんじゃない?」 以前にも似たような装置を突破した事があるのだ。今回も同じ方法を取るつもりらしい。「え?」 大関は咄嗟にクーカが言った事が理解出来なかった。自分の命に価値があるとでも勘違いしていたのであろう。「まて、わしが死ぬと……」 大関がそこまで言いかけたがクーカは迷わず引き金を引いた。一発の鈍い音と引き換えに大関は首を垂れてしまった。「安全装置が働いて工場が自爆と言った所かしら……」 それは想定内だ。クーカは腰から小型のナイフを取り出した。これからの作業にククリナイフでは大きすぎるのだ。 仏像の台座に入り口があった。指紋と網膜の認証のようだ。クーカは大関から取り出した指と眼球を使って扉を開けた。 そこには階段があってもう一階分下がるようだ。降りていくと机と研究設備が並ぶ空間があった。しかし、そこは放棄されたかのように無人だった。研究者たちは予め逃がされていたのであろう。 無機質な空間が煌々と明かりで照らされている。 その中をクーカは銃を構えたままゆっくりと進んでいく。警備員がいる可能性はあるが配置されている可能性は少ないと考えている。「んがっ!」 不意に足元が崩れた感覚に襲われ膝を突いた。目の前の空間がいきなり曲がりくねった
地下一階。 全員が銃を構えたままエレベーターを見つめている。不意に開いた扉から何かが室内に放り込まれてきた。「手榴弾っ!」 誰かが叫んだが投げ込まれた物は、床に落ちる音と同時に炸裂した。強烈な音と閃光がホール内に充満した。「くそっ! スタングレネードかっ!」 警備隊長が自分の目を手で覆い隠しながら唸るように喋った。「撃てっ!」 だが、その掛け声よりも早く、ホール内に侵入を果たした者がいた。全員が目を離したので気が付くのが遅れたようだ。「ぐあっ!」 クーカは飛び込んで最初の男の首にナイフを突き立てた。そのままの体勢で隣に居た男の首を跳ね、返す刀で三人目の腹を切り裂いた。ナイフを使ったのは自分の存在を悟られるのを遅らせる為だ。(手前の右側に三人。 左側に二人。 左奥に二人。 右側奥に三人。 大関は一番奥の台座……) 彼女は右側の三人を始末している隙に、地下に居る人員の配置を見ていた。 男たちはいきなりの目くらましに気が動転しているのか銃を入り口に向けたままだ。次のターゲットはこの二人。その前に左奥の二人の内モニターを監視していた男にはナイフを投げ込んでやった。ナイフは男の首に刺さったが、傍に居たもう一人は咄嗟にしゃがみ込まれてしまった。牽制はとりあえずは成功だ。 クーカは腰から銃を取り出し、左手前の二人に銃弾を送り込んでいく。二人は横合いから来る銃弾に反応できずに、何が何だか分からない内に絶命してしまった。 ここまで掛かった時間は一分も無い。しかし、尚も台座に向かって突進していくクーカ。「くそっ! 小娘がっ!」 モニターの所に居た男が立ち上がって拳銃を撃って来た。しかし、クーカには当たらない。銃弾を右に左に避けながらクーカは男に迫っていく。「何故、当たらないんだっ!」 男は尚も引き金を引き続ける。しかし、銃弾はクーカの身体を捉える事無く床に後を残すだけだった。弾道が見えるクーカには無意味な行為だ。「悪鬼め……」 男の懐に飛び込んだクーカは右手のククリナイフで男の腕を薙ぎ払らった。それから、左手の銃で男の顎下から撃ち抜いた。 男は仁王立ちの状態からゆっくりと倒れていった。クーカはそのまま男の影から右奥の男たちを銃で撃ち倒した。 右奥に居た男たちはアサルトライフルを構えていたが、クーカが倒した男が邪魔で撃てなかったらしい。その
工場の入り口。 ここに来るまでに妨害行為は皆無だった。工場内に兵力を集中させたと見るべきだろう。 工場の入り口には監視カメラが有った。クーカはカメラに向かって携帯電話をかざして何やら操作した。(よし…… これで時間が稼げるっと……) 彼女は強力な赤外線を放射させて、監視カメラのCCD部品を飽和させたのだ。 こうすると自動回復するまで暫くは時間が稼げる。外国の強盗団が良く使う手口だ。 普段なら銃の形をしたアイテムを使っている。だが、今回は日本に持ち込む暇が無かった。(確か…… この辺よね……) 彼女はエレベーターホールに辿り着いた。そして、ホールの隣に有る掃除用具などがある備品室に入り込んだ。 クーカは保安室で見せて貰ったビルの設計図を覚えていた。 五階にあると言う秘密エレベーターの入り口に行く気は無かった。敵が待ち構えているのは分かり切っているからだ。(入るのに手間が掛かるのなら、壁に穴を開けてしまへば良いのよ……) 彼女はショートカットするつもりなのだ。別に友好的な訪問をしに来た訳では無い。真面目に敵の希望通りに動く必要も無いだろう。 背中に背負ったウサギのナップザックを降ろして中から四角い粘土のような物を取り出した。(加減が難しいのよね……) 壁に粘土のような物を張り付けていく。映画やドラマでお馴染みのC4爆薬だ。自在に形を変えられるので、こういう作業には向いている爆弾だ。(ん?) 爆薬を壁に張り付けていると、エレベーターの動作音が聞こえて来た。(誰か降りて来る……) いきなり監視カメラが使えなくなったので様子を見に来たのであろう。「……」 仕掛け終わったクーカは爆弾を爆発させた。爆弾の爆風は動作していたエレベーターの安全装置を作動させ停止させてしまった。(これで何人かは閉じ込める事が出来たっと……) 懐から降下用器具を取り出し、エレベーターのワイヤーに固定した。これを使って一気に降りるのだ。爆破音が響いた以上は、敵に何が起きたのかは伝わってしまったはずだ。 固定を確認するとクーカは中空に身を躍らせた。降下器具はゆっくりとだが彼女を静かに地下へと降ろしていく。(地下には何人いるのかしら……) 降下しながらクーカは考えた。もっとも敵の数は彼女にとっては問題では無い。掛かってしまう時間の方が問題だった。だから、